Vまん、徒然

北の果ての素人ギター弾き、独り言

ありがとう、さようなら。

 2017年の大晦日、14時20分。徐々に浅くなっていくその呼吸が、止まった。そのなきがらに覆い被さって、何度も名前を叫んだ。正月休みの最終日である1月3日、血肉は煙となって、その季節の雪国には珍しいほどの、どこまでも青く澄み渡る空へ空へと昇って行った。

 

 命の端までそばにいて、看取らせてくれた。

 ザックは、最期まで、いい子だった。

 

 子犬でうちに迎えてからずっと、大きな病気も怪我もなく、健康で元気に過ごしてきた15歳の雑種犬、ザック。昨夏に著しく体調を崩し、通院回数が増え、薬や注射や点滴やケアフードを体に入れながら、定期的に診療を受ける日々が続いた。それでも、ザックとの一緒の生活が、このまま先もずっと続いていくんだと信じて疑わなかった。いつもそこにいて、丸くなって寝息を立てていて、帰ってくればおやつをねだって、そう、いつもここにいて。

 

 2002年あたりに古川の楽器販売店で働いてたころ、ベーシストのお客さんがある日、店に雑種の子犬を2匹連れてきた。貰い手をさがしていたようだ。どれどれと好奇心で覗き込んだ。かたや雄、かたや雌だった。その優しくてデリケートなまんまる達は、その場に集まっていた人たちみんなを笑顔にした。雄のほうが少し、言い方は悪いが情けない顔をしている。目が合って、抱っこしたとき、瞬時に決意した。気付けばもう妻に電話をしていた。

「犬、もらって連れて帰ってもいいかな」

 当然のこと、驚き少し呆れている。すでにうちには一匹ヨークシャーテリアがいたし、安易な気持ちでもらってくるもんじゃない、いろいろ大変だよ、散歩とか餌とかうんちとか…、なんとか説得して、半ば強引にその雄犬を我が家へ引き取ったのだ。

 

 私はオジー・オズボーン・バンドのギタリスト、ザック・ワイルドが好きだったので、そこから名前を拝借した。命名。ZAKK。

 親がどんなとか、詳しいことは知らない。どの犬種の血を引いてるとかも知らない。たまらなくかわいくて、いつまでもその顔を見続けられる愛嬌という事実が、出生だの血統だのの定義の必要性を遥かに凌駕して、どうでもいいものにした。

 トイレの躾、家具を噛む癖、日々の散歩、かわいいだけじゃ育てていけない困難も、振り返れば全ていい思い出。

 

 子どものころから実家でも常に何か動物を飼っていた。そばに動物がいる生活には慣れてはいたが、自分の意思で、自分の責任で迎えたのはこれが初めてのことだった。かけた愛情をそのまま返してくれたザックだから、15年間疲れることなく一緒に過ごしてこれたのだろう。動物を飼っている人はみんなそうだろうが、自分が育てているものは世界一かわいい。ありきたりな表現だが、家族なのだ。私はペットという言葉を使うのが嫌で、極力口にしないようにしている。

 

 頑健なやつだと思っていたが、時々下痢をしたり、どこかが痛むのか、突然、キャン!と泣くことがあった。腸が弱いのは飼い主に似たのだろうか。キャンと泣いたあとは決まって必ず、甘えるように膝に乗ってきた。

 14歳を過ぎたころ、2017年の夏のある日、血の混じった鼻水が垂れていた。拭いてあげようとすると猛烈に嫌がった。痛むのだろうか。自分でいろいろ調べてみると、それはそれはいいことは書いていない。喉にも溜まってるのだろうか、呼吸するときにゴボゴボと音が鳴っている。行きつけの動物病院が言うには、完全に調べるには麻酔も必要で、手間もお金もかかる、とりあえず薬で様子をみましょうとのことだった。ところが今度はあまり動かなくなってしまった。食事も受け付けない。そこで、人から薦められた別の病院に連れて行ってみた。家計は余裕がなかったが、初診が高くなろうがどうでもいい。そこではすぐレントゲンを撮ってくれた。数日後、腫瘍はあるが悪性ではないとわかり、ホッと胸をなでおろした。同時に、背骨から腰にかけてヘルニア気味で安静が必要なこと、腎臓が弱っていること、前立腺が肥大になっていること、その都度教えて処置してくれた。これからも病院代はかかっていくのだろうと不安な気持ちにもさせられたが、部屋でスヤスヤ眠るザックの顔を見ていると、それでもいいやとすら思った。処置のあと、少しは元気が回復し、食事もとれるようになった。このまま、元気で過ごしてくれればいいと、きっとそうなるはずだと、根拠のない自信で願っていた。今までは騒いだりしたら叱っていたが、こういうことがあってからは元気が一番ありがたいと思い、例えば、動物病院の中で吠えたとしても嬉しくさえ感じた。おとなしい犬がいいというのは人間側の都合だ。犬世界では真逆のはずだ。

 このとき、ふと思った。普通に賑やかにしていたあたりまえのことが、なんとありがたいものなのかと。我々人間も、病気になったり怪我をしたり心が傷むつらい出来事があると、そのあたりまえの素晴らしさが身に染みてわかるもの。そしてさらに思う、この普段あたりまえだと思っていることこそが、実は奇跡なんじゃないかと。何事もない日常というのは、実は奇跡の連続であると。なんだかザックに教えてもらったような気がして、傍らで呼吸をして動いている奇跡の環境に感謝をした。先に通っていた病院も決して信用できなかったわけではないが、取り付く島もない必死の気持ちが気付けば自分達を動かしていた。両病院のおかげさまがあって、きっと回復できたんだろう。この瞬間も大事な奇跡の1ページ。しかし、考えたくはなくとも、命の締め切りがもしかしたらもう近いんじゃないだろうかと、不安が心に淀む日々がこれから続くことになるのだった。

 

 その年の暮れの12月。もう何も食べてくれなくなってしまった。数週間、点滴を打ってもらうための日帰り入院の日が続く。しかし、以前のように点滴後の回復があまり見られなくなっていた。葛藤がよぎる。元気を取り戻す効果がない場合、病院に通い続けて点滴をし、半ば無理に命を繋げていくのと、うちにいてそばに置いてあげるのと、彼にとってどっちが幸せなのだろうか。悩んで悩んで、病院の先生とも相談し、どっちにしてもつらいのならばもう、そばに置いておくことに決めた。残された時間のわずかでも長く、一緒に過ごしたいと思った。

 足も弱り、トイレまで間に合わないことが増えてきており、市販の犬用おむつを穿かせていた。定期的に外し、お尻を拭いて、新しいのを穿かせてまた寝かせるとき、自分にももし人間の子どもがいたらこういう感じだったんだろうかと、今まで想像もしたことがなかった感情が押し寄せてくる。寝ている姿は普通に今までどおりだ。呼吸でお腹を動かして横たわっている。自分で歩いていって、水はたまに飲む。違ってきたのはものを口にしないということ。最後の頼みの綱のササミ肉も、差し出されると顔を背けてしまう。しかしこの年の瀬、一緒に来年の戌年を迎えようなって、勝手に約束をした。叶うはずだと信じて。

 

 私は12月28日から翌年1月3日まで、年末年始の休暇に入っていた。極力外出はせずに、なるべく傍にいて、暇さえあればそっと撫で、小さく声をかけ、名前を呼んでいた。

 12月30日。もう歩くのも困難に。水を飲ませたく、スポイトで少しずつ口に注ぐ。横になったまま、舌を動かし、ゴクゴクと音を立てて飲んでくれた。喉が渇いていたのだろう。お利口さんだねと、抱っこして声をかけた。

 

 次の日の12月31日、大晦日。風呂を沸かして入ろうかと思ったが、時間をかけるのが少し不安で、ささっとシャワーだけでも浴びようと、ザックに「待っててな」と言ってから風呂場へ。丹念に洗う時間も惜しく、出て急いでまた階段を駆け上がり、戸を開けるなり、「生きてるか」って傍に駆け寄る。呼吸が浅いがお腹が動いて息をしている。生きている。ホッとして髪をドライヤーで乾かし始めたころ、さらに呼吸が浅くなってきているのが見えた。半乾きの髪もそこそこに、Tシャツと下着の姿のまま、そうだスポイトだ、お水。昨日飲んでくれたように、今日もやってみよう。口に注ぐ。今日はゴクゴクといわない。口を素通りして、水は床へ流れていた。小刻みにハァ、ハァ、と息がまた浅くなる。吐きたいのだろうか。吐くというのはとても労力を要する行為なのだそうだ。もはや前足にも力が入らなくなっているザックを抱えて立たせ、吐けるような体勢を作ってあげる。そうだ、とひらめいて、コンビニの大き目のビニール袋の底の角をはさみで切って2つ穴を開け、ザックの後ろ足を通してあげた。これを持ち上げると体が立つだろう。だめだ。左右にゆらゆらして安定しない。そうだ。玄関に駆け下りて、散歩で使っていたハーネスとリードを取りに行く。本来前足を通すハーネスを、ちょっと長くして後ろ足に通したらどうだろうか。しかし結果は同じだった。どの足にも力が入らないのだから、結局ゆらゆらして体をおさえられない。また横に寝かせた。粘液のようなものが口の中にある。ティッシュで拭き取ろうとした。なかなか口の中に入っていかない。そこにあった割り箸をその口に横に噛ませ、開けながら口の中を拭く。全部出せればいいのだろうが、まだ残っているみたいだ。腎臓が弱っている場合、水をあまり飲みすぎると吐くんだと病院の先生が以前言っていた。もしかしたら昨日私が飲ませてやったのがまずかったのだろうか。呵責に苛まれる。息がさらに浅くなってゆく。ザック! ザック! だめか。もうだめなのか。往生際の悪い子どものように、もっと、もっとと、彼の命を欲しがった。

 ザックの体に耳を当てる。心臓は! トクトクいってるじゃないか。なんだこれは私の脈か。ザック! もう、動かない。

 12月31日、14時20分。

 その息を、引き取ってしまった。

 

 一緒に戌年を迎えようなって約束していたのに。でも、がんばった。傍にいて、休暇中に。最期の瞬間まで看取ってあげられたこと、点滴入院をやめさせたこと、私の中では間違ってはいなかったと信じたいが、彼はどう思っているかな。

 黒い洋服が好きだった私。あんなに煩わしかったザックの白い抜け毛も、今となっては愛おしい。臭かったお尻の臭いも、言うこと聞かず吠え続ける声も、今となっては愛おしい。大晦日の夜、たまらずにひとりで、ザックとよく歩いた散歩コースを歩いた。

 

 2018年元日の朝。作った箱の中で、タオルを掛けられている冷たくなった姿を見て、また現実を突きつけられる。

 15年間、ありがとう。ごめんな。

 ずっとうちの中で一緒だったから、いなくなる生活なんて考えたこともなかった。

 うちに来て幸せだったかな。

 楽しかったかな。

 迎えたときから定められていた期間、いつか来るとは覚悟していたけれど、本当にその日が来てしまった。

 なきがらになったその体を、頭を、手を、何べんも何べんも撫でた。声をかけて、まるで眠ってるみたいだな、いい子だったねと感謝を込めて。心の中にまだある、受け入れたくないという悪あがきにも似た気持ちだった。

 

 火葬とか登録抹消とか、処理的なことは考える余裕もなかったし、考えたくもなかった。がしかし、いやでも進めていかなければいけない。民間の火葬業さんに電話をする。日取りが決まった。1月の3日、午後14時半。ザックは、私の年末年始の休暇期間中に納まるようにしてくれたのか。よく遊んだボールやらおもちゃ、毎日使ったハーネス、首輪、リード。冬期間に着ていたマント。毛繕い用のブラシ。水飲み用の器。少し余ったおむつ。たくさん余ったご飯。思い出せないほどのたくさんの思い出。それらをこの部屋に残して、箱の中で今にも生き返りそうなザックを車に乗せ、斎場へ出かけた。とても丁寧に、人間と変わらぬように、扱っていただいた。線香をあげ、手を合わせたのち、中へ運ばれていった。所要時間は1時間と40分。待ってる間ずっと、がんばれよがんばれよと祈り続けた。

 真っ白で、とても立派なきれいな骨。最期の最期まで褒められるやつだ。たいしたもんだ。部屋に持ち帰ってきた骨箱の、その上部の斜めの部分をザックの鼻に見立てて指で撫でる。「行って来るね」「ただいま」「今日も寒いね」「ちゃんと待ってたか」「ザックやーい」写真に向かっていつもどおりに声をかける。知らぬ人が見たらばかだと思うだろうか、でも見えなくなってしまったけれど、あいつは確かにそこにいるんだ。

 

 ギターアンプに電源を入れる気持ちにもあんまりなれないが、今までどおり練習して、決まってるライブをやろう。いつも爆音の中でも心地よく寝ていたあいつはきっと、ちゃんとやれーって言ってると思うから。

 

 うちに来たときの、ブチュッと丸くて、いつまで見ていても飽きないあどけなさ。

 それから15年間の毎日毎日、横を見れば常にそこにうずくまって寝ていた姿。

 花火大会の音や雷の音が大嫌いで。

 うちの中以外ではほとんど座ることもない神経の細やかさで。

 帰宅すればいつも吠えて迎えてくれて。

 

 ザックは、最期まで、いい子だった。

 

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