Vまん、徒然

北の果ての素人ギター弾き、独り言

斉藤和義 LIVE TOUR 2018 ”Toys Blood Music”

斉藤和義さんのホールライブに行ってきました。青森リンクステーションホール。我々の世代には青森市文化会館といったほうがわかりよいですが。

今回のニューアルバムもとても良かったので、じっくりみっちり予習して臨みました。
トップナンバーは「Good Luck Baby」かな?と勝手に予想していましたらば見事に外れ。「マディウォーター」でのスリリングな幕開けでした。

新譜から、全部の曲を披露してくれたんじゃないかな。ライブならではのバンドアレンジで、他のメンバーも楽器を使い分けたりして曲に彩りを添えていました。一番の盛り上がりどころはメンバー全員でのバブリーダンス付「ダンシングヒーロー」を中間に挟んだ「問題ない」でしょうか。みなさんスタジオでこれを覚えて練習してたさまを想像すると、ほっこりして笑みがこぼれそうです。

新譜の中で一番心に刺さった曲の「オモチャの国」では、アウトロ部分が混沌なプログレのようにカオスにアレンジされていて、不協を奏でる斉藤さんのトランペットも狂気に満ち、鬼気迫るものがありました。世の中の皮肉を詰め込んだ歌詞に導かれ、段々と段々と昇りつめていくさまにゾワゾワ鳥肌がたちました。今回のアルバムは打ち込みや同期も多用されており、ライブの照明もおそらく同期してるんだと思います。曲に合わせて高速のテンポで目くるめき、ブレイクの瞬間で暗闇に変わる。

他のメンバーがさがり、斉藤さんひとりで演じられたジャジーインスト「Good Night Story」。穏やかで本当にGood Nightを感じられるメロディが、普通のロックギタリストが使わないようなテンションコードに絡みながら。こういうギターの技術にもいつも驚かされます。

そのままひとりで弾き語る「世界中の海の水」。やさしいアコギの爪弾きで歌われるその曲では目頭が熱くなり、言葉が詰まる思いでした。斉藤さんはあまり歌詞の解説をしない人ですから想像で補いながら聴くしかないのですが、すでにこの世にはいない誰かに向けた真の愛の歌なんだろうというのは痛いくらい伝わります。独特のあの鼻にかかった声で深いリバーブとともにあの詞を歌われると本当に切なくて、この1曲のためだけに来ても良かった、そう思えるぐらいの時間でした。

今回のライブは、その新譜以外からセレクトされた曲もすべて好きな曲でした。「deja vu」「砂漠に赤い花」「黒塗りのセダン」「僕の踵はなかなか減らない」「I Love Me」「虹」「月光」、エトセトラエトセトラ。特に嬉しかったのは「WONDERFUL FISH」と、そして「真っ赤な海」。まさかこの2曲を生で聴けるとは思っていなかったです。ラストを締めたなじみの曲「歩いて帰ろう」「ずっと好きだった」はお約束的な安堵感。敢えてセットの中に「やさしくなりたい」や「歌うたいのバラッド」がなくてよかったかな、その分貴重なものが聴けました。

斉藤さんは私もカバーしてまして大好きなアーティストなんですが、毎回ライブを見るたびにその気持ちも強くなります。詞や曲のよさは言わずもがな、ライブでお客さんを楽しませるためのアイデアに満ちた演出と、その場にいる人全員をホンワカさせる気の抜けたトーク。青森の地元ネタで、ドリームタウンという名称はもうちょっと考えたほうがいいと、ハードオフにも行ったけどたいして何もなかったと、ギブソン工場があるアメリカのド田舎にとても風景が似ていると、末廣ラーメンが好きだと、寒い地方の人は周りを気にしながら席を立つか座るかで悩むと、自虐的な北国の人に大ウケのお話。

毎回素晴らしい作品を届け、ツアーで寄ってくださり、ありがたいことでございます。次回もまた、今回は下ネタ少なめでしたので、その辺も増量してもらえることを期待して楽しみに待ちたいと思います。

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遠藤ミチロウ ASYLUM Live

弘前ASYLUM。
ミチロウさんにまた会いに行きました。ここで見る、二回目の弾き語りライブ。最前の1mの距離でかぶりつきで。

東京とは20℃の気温差があるとのことでとても寒がっておられました。Just Like a Boyからスタートした弾き語りライブは、和やかなMCを挟みながら約2時間。
鬼気迫る難解なグロテスクから、静かでおだやかなものまで、THE STALINの曲も交えつつ。

小さな声で話されるMCも一字一句を逃すまいと聞いていました。福島の現状について、或いはお母様の状態について、或いは好きな金魚のことについて、或いは好きな温泉のことについて、ほかいろいろ。
特に、お母様のこと。
数年ぶりに帰省したら、転んで入院中で、もう俺の顔を覚えていないんだ、と。弟が「兄ちゃんだよ」と教えても、「ミチロウこんな顔だったっけ…」と。その後電話をしても、耳もとても悪くなっており会話にならなくて、俺の声もかよ…と落ち込んだそうです。ミチロウさんの曲に「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」という語りと叫びだけのものがあるんですが、実際にはその歌の逆になってしまった、とわざと笑いを誘うような話し方をされていましたが、最後にボソッと言った「つらかったです」という一言に胸を締め付けられる思いがしました。

終演後、物販でTシャツを悩んでる私に、合うサイズを勧めてくださったり、気さくに撮影に応じてくださったり、とても優しい人です。
中学の頃、THE STALINのカセットテープを伸びるまで何回も何回も聴いていました。その過激さの裏にある溢れる人間味が、今、違う形となって音楽で表現されています。

以前アサイラムにソロ弾き語りで来たときにも見に行ったんですが、終わったあとで「ロマンチストも聴きたかったです」と言ったとき、「ああ、あれはね、雰囲気出ないからバンドでじゃないとやらないんだ」と仰ってたんですが、今回、なんと最後にやってくれました。そのこともお伝えしたら、羊歯明神でやるようになってからひとりでもやることにしたそうです。本当はその音頭調でやるつもりだったそうですが、リズム間違えちゃった、と。しかし私は原曲どおりのストレートなバージョンで聴けて、とても嬉しかった!
座って静かに聴いていたお客さんたちもこの曲だけはサビ合唱。永遠に褪せぬ名曲です。

レジェンドのカリスマ、健在。

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ichiro ライブ in ひらかわ

青森県が誇るブルースマン、ichiroさんのライブを見に行ってきました。
いまや矢沢さんや長淵さんのバックバンドメンバーも務めあげるギタリスト。故郷平川市(旧尾上町)でのコンサートは、昨年末亡くなられたお父様との約束だったようで、MCの端々に、父への感謝、そのために尽力してくれた方々への感謝、地元の仲間への感謝、来てくれた方々への感謝がとてもとても感じられました。
今どんなに都会の大きな会場でやる機会があろうとも、生まれ育った土地に対する想いには敵わないと。
18歳のときに家族の反対を押し切り、半ばこんな田舎でなんてという気持ちで飛び出して上京したichiroさん。アメリカへも80回以上行ってひとりで修行を積んだといいます。
数年前にPEARLのSHO-TA(田村直美)さんと弘前に来たとき、とにかく男気に溢れた人だと紹介されていましたね。
会場の平川市文化センターに集まった老若男女のたくさんのお客さん。今50歳のichiroさんの若さとパワー、熱量と優しさ、歌唱力とギターテクニックに、いろんなことをそれぞれが感じたんじゃないかな。
前半は緩やかな曲から始め、徐々に会場を温めてからの、本編ラストの3曲でのスパークぶりが素晴らしかったです。
指板を縦横無尽、正確なピッチのチョーキング、エフェクトではなく指から出される音の太さ。大御所にも認められ、強固な意志を持って地道に活動してきた地元の星に、居合わせた子どもたちも夢と希望と勇気をもらったことだろうと思います。がんばれば、田舎からでも夢は叶うんだと。
いいライブでした。

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ファンキー末吉さんとの夜

爆風スランプやX.Y.Z.→A等で活動され、アジア各地でも活躍されているドラマー、ファンキー末吉さんが、ひとりドラムツアーとしてこの青森市にも来てくださいました。
この日の青森は近年稀に見る猛吹雪のブリザード状態で、地元の人間も外出することに怯むぐらいの天候でした。それまで北海道10箇所を回られていたファンキーさん、キャンピングカーで海を越えて移動の予定の中、津軽海峡を渡るフェリーが欠航。前座で参加させていただく我々鋼鉄節、ハラハラしながら交通機関の情報や速報サイトを注視しておりました。もしかしたら来られないんじゃないかと… そんな中、キャンピングカーを函館に乗り捨てて新幹線でひとり青森へ向かうというファンキーさんの投稿が。物販の荷物もあるでしょうに、凄い。車は、フェリーが動いたら娘さんが運転して移動させるとのこと。私は少しホッとして、仕事を終えるやファンキーさんがもういらっしゃるであろうクォーターへ急ぎました。

前座の鋼鉄節とSWEATS。順調にリハを終え、受付ロビーの机でブログを書き込んでいたファンキーさんにセッションリハのお願いをし、いろいろお話させていただきながら和やかに進んでいきました。既に並べられていた物販から、書籍「日本の音楽が危ない~JASRACとの死闘2899日~」と、ツアーTシャツと、爆風スランプトリビュートアルバム2枚を購入、少しでも売上金の足しにしていただければいいなあと思いつつ。

開演。客席は満席。よかった。声をかけたお客さんがこの超悪天候にかかわらず足を運んでくれました。しかもみんなその日の仕事を終えてから。
一つ目の対バンSWEATS。洗練されお洒落感もありロック感もあるトリオインストバンドで、とても心地いいサウンドでした。いろんなリズムやコードや音色を使い分け、独特の世界にクォーターのお客さんを連れて行った感じです。
二番手、鋼鉄節。前座ということで20分程度に集約し、慣れたセットリストで。出張明けの疲労感からくる睡魔に襲われつつ、しかもビールも飲んでしまい、ファンキーさんの前でやるということへの極度の緊張感と、吹雪の中来てくれたバンドメイトへの感謝の心と、いろんなものがごちゃ混ぜになった不思議なハイのまま、ステージは進行しました。ところどころ、しまった!という箇所もありましたが、それでも楽しみながらできたのではないかと思っています。

本編はファンキー末吉さんのひとりドラムです。
音源に合わせ、ヘッドホンでモニターしながら、片方でクリック、片方で音源を聴いてドラムを叩くのだそうです。いきなり複雑なプログレチックな曲で幕開けです。
このひとりドラムというのは、ファンキーさんいわくライブやコンサートとは違い、物販商品の実演販売というひとつの芸なのだそうです。1曲目を叩き終えた後、その曲の音源と楽譜がセットで売られていることを紹介。そういった具合で、話を絡めながら曲を披露していきます。話も凄く面白くて、ぐいぐい引き込まれていきます。ここでは詳しく書けませんが、中国での出来事、北朝鮮での出来事についての体験談はゾッとする反面、命を懸けて演奏を行い、音楽を教える姿はもっともっと世間に知られてもいいのに、と思いました。披露された曲は思いのほか難曲で、よくこれを向こうの子どもたちに教えられたなぁと驚くものでした。いろんな体験をしてこられ、体を張って音楽に取り組んできた人だからこそ、吹雪ごときで交通機関が麻痺しても動じることがないのでしょう。そこに中止という選択肢なぞ存在しないのでしょう。ドラムサウンドは重く大きく、目をつぶりながら。その、本能の赴くままの野獣のような姿は、今までの生き様が凝縮されているようでした。爆風トリビュートアルバムに収録されている筋肉少女帯バージョンのびっくりミルクも凄かったです。橘高さんの神経の細やかさにも触れ、冒頭のギターのアルペジオ部分は20トラック使っているとの紹介。あの曲が、スラッシュメタルになっていました。盛りだくさんの楽しいお話と超絶な演奏をいったん終えて、メインステージと命名された物販スペースへ移動。インターバルの後、我々とセッションタイム。

爆風スランプの初期の名曲2曲と、我々鋼鉄節アレンジの曲1曲、計3曲を僭越ながら一緒にやらせていただきました。中学の頃よく聴いた爆風スランプ。今回なにをやろうかとまたいろいろ聴きかえしていると、実にいい曲がたくさんあり、さらには今聴くからこその新たな発見もあったりして、音楽は時代を超えるものなんだと思いました。そして音楽が永きに亘って存在するためにはやはり、ある日一瞬で消滅するデータとかではなく、レコードやCDという、半永久的に残り続ける音楽のパッケージが必要だと思いました。


緊張をほぐしてくださったのはファンキーさんのそのお人柄でした。打ち上げもご一緒させていただいて、実にたくさんのお話を聞かせていただきました。一生忘れられない夜が、またひとつ増えました。
まだまだ続くファンキーさんのツアー、どうか病気や怪我などされませぬよう、健康にご留意され、無事の成功を祈願しております。
このたびはファンキーさん、関係者様、来てれたお客様、本当にありがとうございました。


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ありがとう、さようなら。

 2017年の大晦日、14時20分。徐々に浅くなっていくその呼吸が、止まった。そのなきがらに覆い被さって、何度も名前を叫んだ。正月休みの最終日である1月3日、血肉は煙となって、その季節の雪国には珍しいほどの、どこまでも青く澄み渡る空へ空へと昇って行った。

 

 命の端までそばにいて、看取らせてくれた。

 ザックは、最期まで、いい子だった。

 

 子犬でうちに迎えてからずっと、大きな病気も怪我もなく、健康で元気に過ごしてきた15歳の雑種犬、ザック。昨夏に著しく体調を崩し、通院回数が増え、薬や注射や点滴やケアフードを体に入れながら、定期的に診療を受ける日々が続いた。それでも、ザックとの一緒の生活が、このまま先もずっと続いていくんだと信じて疑わなかった。いつもそこにいて、丸くなって寝息を立てていて、帰ってくればおやつをねだって、そう、いつもここにいて。

 

 2002年あたりに古川の楽器販売店で働いてたころ、ベーシストのお客さんがある日、店に雑種の子犬を2匹連れてきた。貰い手をさがしていたようだ。どれどれと好奇心で覗き込んだ。かたや雄、かたや雌だった。その優しくてデリケートなまんまる達は、その場に集まっていた人たちみんなを笑顔にした。雄のほうが少し、言い方は悪いが情けない顔をしている。目が合って、抱っこしたとき、瞬時に決意した。気付けばもう妻に電話をしていた。

「犬、もらって連れて帰ってもいいかな」

 当然のこと、驚き少し呆れている。すでにうちには一匹ヨークシャーテリアがいたし、安易な気持ちでもらってくるもんじゃない、いろいろ大変だよ、散歩とか餌とかうんちとか…、なんとか説得して、半ば強引にその雄犬を我が家へ引き取ったのだ。

 

 私はオジー・オズボーン・バンドのギタリスト、ザック・ワイルドが好きだったので、そこから名前を拝借した。命名。ZAKK。

 親がどんなとか、詳しいことは知らない。どの犬種の血を引いてるとかも知らない。たまらなくかわいくて、いつまでもその顔を見続けられる愛嬌という事実が、出生だの血統だのの定義の必要性を遥かに凌駕して、どうでもいいものにした。

 トイレの躾、家具を噛む癖、日々の散歩、かわいいだけじゃ育てていけない困難も、振り返れば全ていい思い出。

 

 子どものころから実家でも常に何か動物を飼っていた。そばに動物がいる生活には慣れてはいたが、自分の意思で、自分の責任で迎えたのはこれが初めてのことだった。かけた愛情をそのまま返してくれたザックだから、15年間疲れることなく一緒に過ごしてこれたのだろう。動物を飼っている人はみんなそうだろうが、自分が育てているものは世界一かわいい。ありきたりな表現だが、家族なのだ。私はペットという言葉を使うのが嫌で、極力口にしないようにしている。

 

 頑健なやつだと思っていたが、時々下痢をしたり、どこかが痛むのか、突然、キャン!と泣くことがあった。腸が弱いのは飼い主に似たのだろうか。キャンと泣いたあとは決まって必ず、甘えるように膝に乗ってきた。

 14歳を過ぎたころ、2017年の夏のある日、血の混じった鼻水が垂れていた。拭いてあげようとすると猛烈に嫌がった。痛むのだろうか。自分でいろいろ調べてみると、それはそれはいいことは書いていない。喉にも溜まってるのだろうか、呼吸するときにゴボゴボと音が鳴っている。行きつけの動物病院が言うには、完全に調べるには麻酔も必要で、手間もお金もかかる、とりあえず薬で様子をみましょうとのことだった。ところが今度はあまり動かなくなってしまった。食事も受け付けない。そこで、人から薦められた別の病院に連れて行ってみた。家計は余裕がなかったが、初診が高くなろうがどうでもいい。そこではすぐレントゲンを撮ってくれた。数日後、腫瘍はあるが悪性ではないとわかり、ホッと胸をなでおろした。同時に、背骨から腰にかけてヘルニア気味で安静が必要なこと、腎臓が弱っていること、前立腺が肥大になっていること、その都度教えて処置してくれた。これからも病院代はかかっていくのだろうと不安な気持ちにもさせられたが、部屋でスヤスヤ眠るザックの顔を見ていると、それでもいいやとすら思った。処置のあと、少しは元気が回復し、食事もとれるようになった。このまま、元気で過ごしてくれればいいと、きっとそうなるはずだと、根拠のない自信で願っていた。今までは騒いだりしたら叱っていたが、こういうことがあってからは元気が一番ありがたいと思い、例えば、動物病院の中で吠えたとしても嬉しくさえ感じた。おとなしい犬がいいというのは人間側の都合だ。犬世界では真逆のはずだ。

 このとき、ふと思った。普通に賑やかにしていたあたりまえのことが、なんとありがたいものなのかと。我々人間も、病気になったり怪我をしたり心が傷むつらい出来事があると、そのあたりまえの素晴らしさが身に染みてわかるもの。そしてさらに思う、この普段あたりまえだと思っていることこそが、実は奇跡なんじゃないかと。何事もない日常というのは、実は奇跡の連続であると。なんだかザックに教えてもらったような気がして、傍らで呼吸をして動いている奇跡の環境に感謝をした。先に通っていた病院も決して信用できなかったわけではないが、取り付く島もない必死の気持ちが気付けば自分達を動かしていた。両病院のおかげさまがあって、きっと回復できたんだろう。この瞬間も大事な奇跡の1ページ。しかし、考えたくはなくとも、命の締め切りがもしかしたらもう近いんじゃないだろうかと、不安が心に淀む日々がこれから続くことになるのだった。

 

 その年の暮れの12月。もう何も食べてくれなくなってしまった。数週間、点滴を打ってもらうための日帰り入院の日が続く。しかし、以前のように点滴後の回復があまり見られなくなっていた。葛藤がよぎる。元気を取り戻す効果がない場合、病院に通い続けて点滴をし、半ば無理に命を繋げていくのと、うちにいてそばに置いてあげるのと、彼にとってどっちが幸せなのだろうか。悩んで悩んで、病院の先生とも相談し、どっちにしてもつらいのならばもう、そばに置いておくことに決めた。残された時間のわずかでも長く、一緒に過ごしたいと思った。

 足も弱り、トイレまで間に合わないことが増えてきており、市販の犬用おむつを穿かせていた。定期的に外し、お尻を拭いて、新しいのを穿かせてまた寝かせるとき、自分にももし人間の子どもがいたらこういう感じだったんだろうかと、今まで想像もしたことがなかった感情が押し寄せてくる。寝ている姿は普通に今までどおりだ。呼吸でお腹を動かして横たわっている。自分で歩いていって、水はたまに飲む。違ってきたのはものを口にしないということ。最後の頼みの綱のササミ肉も、差し出されると顔を背けてしまう。しかしこの年の瀬、一緒に来年の戌年を迎えようなって、勝手に約束をした。叶うはずだと信じて。

 

 私は12月28日から翌年1月3日まで、年末年始の休暇に入っていた。極力外出はせずに、なるべく傍にいて、暇さえあればそっと撫で、小さく声をかけ、名前を呼んでいた。

 12月30日。もう歩くのも困難に。水を飲ませたく、スポイトで少しずつ口に注ぐ。横になったまま、舌を動かし、ゴクゴクと音を立てて飲んでくれた。喉が渇いていたのだろう。お利口さんだねと、抱っこして声をかけた。

 

 次の日の12月31日、大晦日。風呂を沸かして入ろうかと思ったが、時間をかけるのが少し不安で、ささっとシャワーだけでも浴びようと、ザックに「待っててな」と言ってから風呂場へ。丹念に洗う時間も惜しく、出て急いでまた階段を駆け上がり、戸を開けるなり、「生きてるか」って傍に駆け寄る。呼吸が浅いがお腹が動いて息をしている。生きている。ホッとして髪をドライヤーで乾かし始めたころ、さらに呼吸が浅くなってきているのが見えた。半乾きの髪もそこそこに、Tシャツと下着の姿のまま、そうだスポイトだ、お水。昨日飲んでくれたように、今日もやってみよう。口に注ぐ。今日はゴクゴクといわない。口を素通りして、水は床へ流れていた。小刻みにハァ、ハァ、と息がまた浅くなる。吐きたいのだろうか。吐くというのはとても労力を要する行為なのだそうだ。もはや前足にも力が入らなくなっているザックを抱えて立たせ、吐けるような体勢を作ってあげる。そうだ、とひらめいて、コンビニの大き目のビニール袋の底の角をはさみで切って2つ穴を開け、ザックの後ろ足を通してあげた。これを持ち上げると体が立つだろう。だめだ。左右にゆらゆらして安定しない。そうだ。玄関に駆け下りて、散歩で使っていたハーネスとリードを取りに行く。本来前足を通すハーネスを、ちょっと長くして後ろ足に通したらどうだろうか。しかし結果は同じだった。どの足にも力が入らないのだから、結局ゆらゆらして体をおさえられない。また横に寝かせた。粘液のようなものが口の中にある。ティッシュで拭き取ろうとした。なかなか口の中に入っていかない。そこにあった割り箸をその口に横に噛ませ、開けながら口の中を拭く。全部出せればいいのだろうが、まだ残っているみたいだ。腎臓が弱っている場合、水をあまり飲みすぎると吐くんだと病院の先生が以前言っていた。もしかしたら昨日私が飲ませてやったのがまずかったのだろうか。呵責に苛まれる。息がさらに浅くなってゆく。ザック! ザック! だめか。もうだめなのか。往生際の悪い子どものように、もっと、もっとと、彼の命を欲しがった。

 ザックの体に耳を当てる。心臓は! トクトクいってるじゃないか。なんだこれは私の脈か。ザック! もう、動かない。

 12月31日、14時20分。

 その息を、引き取ってしまった。

 

 一緒に戌年を迎えようなって約束していたのに。でも、がんばった。傍にいて、休暇中に。最期の瞬間まで看取ってあげられたこと、点滴入院をやめさせたこと、私の中では間違ってはいなかったと信じたいが、彼はどう思っているかな。

 黒い洋服が好きだった私。あんなに煩わしかったザックの白い抜け毛も、今となっては愛おしい。臭かったお尻の臭いも、言うこと聞かず吠え続ける声も、今となっては愛おしい。大晦日の夜、たまらずにひとりで、ザックとよく歩いた散歩コースを歩いた。

 

 2018年元日の朝。作った箱の中で、タオルを掛けられている冷たくなった姿を見て、また現実を突きつけられる。

 15年間、ありがとう。ごめんな。

 ずっとうちの中で一緒だったから、いなくなる生活なんて考えたこともなかった。

 うちに来て幸せだったかな。

 楽しかったかな。

 迎えたときから定められていた期間、いつか来るとは覚悟していたけれど、本当にその日が来てしまった。

 なきがらになったその体を、頭を、手を、何べんも何べんも撫でた。声をかけて、まるで眠ってるみたいだな、いい子だったねと感謝を込めて。心の中にまだある、受け入れたくないという悪あがきにも似た気持ちだった。

 

 火葬とか登録抹消とか、処理的なことは考える余裕もなかったし、考えたくもなかった。がしかし、いやでも進めていかなければいけない。民間の火葬業さんに電話をする。日取りが決まった。1月の3日、午後14時半。ザックは、私の年末年始の休暇期間中に納まるようにしてくれたのか。よく遊んだボールやらおもちゃ、毎日使ったハーネス、首輪、リード。冬期間に着ていたマント。毛繕い用のブラシ。水飲み用の器。少し余ったおむつ。たくさん余ったご飯。思い出せないほどのたくさんの思い出。それらをこの部屋に残して、箱の中で今にも生き返りそうなザックを車に乗せ、斎場へ出かけた。とても丁寧に、人間と変わらぬように、扱っていただいた。線香をあげ、手を合わせたのち、中へ運ばれていった。所要時間は1時間と40分。待ってる間ずっと、がんばれよがんばれよと祈り続けた。

 真っ白で、とても立派なきれいな骨。最期の最期まで褒められるやつだ。たいしたもんだ。部屋に持ち帰ってきた骨箱の、その上部の斜めの部分をザックの鼻に見立てて指で撫でる。「行って来るね」「ただいま」「今日も寒いね」「ちゃんと待ってたか」「ザックやーい」写真に向かっていつもどおりに声をかける。知らぬ人が見たらばかだと思うだろうか、でも見えなくなってしまったけれど、あいつは確かにそこにいるんだ。

 

 ギターアンプに電源を入れる気持ちにもあんまりなれないが、今までどおり練習して、決まってるライブをやろう。いつも爆音の中でも心地よく寝ていたあいつはきっと、ちゃんとやれーって言ってると思うから。

 

 うちに来たときの、ブチュッと丸くて、いつまで見ていても飽きないあどけなさ。

 それから15年間の毎日毎日、横を見れば常にそこにうずくまって寝ていた姿。

 花火大会の音や雷の音が大嫌いで。

 うちの中以外ではほとんど座ることもない神経の細やかさで。

 帰宅すればいつも吠えて迎えてくれて。

 

 ザックは、最期まで、いい子だった。

 

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村越HARRY弘明 TOUR 2017 BEAT FAST

The Street Slidersは昔から本当に好きで、特に中高生のころはずいぶん聴きました。気だるくルーズなイメージが大きいですが、実はそれだけではなくて、歌い方ははっきりしていて高い音程まで出るし、一見寡黙で怖そうに見えるけどはにかんだ優しい笑顔も覗かせるし、ロックの不良性を押し出す代表みたいにも言われていましたがむしろ真逆で、真摯かつ真面目に音楽に取り組んでいたバンドという表現のほうが相応しいと思います。

 

そのボーカル&ギターの村越弘明さん、つまりはHARRYさんのライブを見てきました。数年前にも弘前東栄ホテルでドラマーと2人編成でのライブを見てますが、今回のツアーメンバーはなんと、ベースに元The Street Slidersの戦友、市川James洋二さん。ギターに、斉藤さんのツアーにも同行の真壁陽平さん。ドラムに藍坊主の渡辺拓郎さん。スライダーズ解散後初の、ツインギター4ピーススタイルということで、これは面白いに違いない、見たくてたまらなくて、でもチケット高いし、仕事は現場終わりからの参戦になるし、直前まで悩んで悩んで悩んで、ついに決め、やはり行ってまいりました。

 

曲が終わる毎に指を一本高く掲げる仕草、膝を合わせて腰を落とすキース・リチャーズ風のスタイル、客と目が合うと頷きながら小さく指を指す、あごを上げ気味に絞り出すような歌いかた、様々な健在。

拓郎さんはシンプルに淡々とドラムを刻む、時折笑顔を見せながら。真壁さんは多彩なエフェクトで上手く味付けをしつつも、シンプルなブルーズの音も奏でる。ベースJamesさんは昔の見た目と180度変わり、スキンヘッドにグラサンにヒゲ。イメージとしては松山千春さんに似ている感じです。余計なことはせず、余計な言葉も発することなく、身体全体でリズムを取り、低音を支える姿は職人でした。カッコ良かった。

 

HARRYさんのMCはほとんどなく、でもわずかでも「楽しんでますか」とか言うと歓声や拍手が起きたり、スライダーズ時代の曲で盛り上がったあとに「良かったな」と笑いを誘ったり。新旧織り交ぜのセットリスト、後輩バンドのカバーも足しながらも、紛れも無いHARRY節が矢継ぎ早。かなりの曲数をやってくれました。スライダーズ時代の名曲、今の新曲、どれも良かったです。無口さは変わらないけど、昔のとがった部分が少なくなり、優しい大人の印象を受けました。

 

本編ラストの曲「Slider」のときにだけ、突然後ろからガーっとぶつかってきて前に出て踊り出していたブスでデブのバカ女2人をブン殴りたくなりましたが、我慢してそのあとしばらく睨みつけただけで済ませてやった自分を褒めてあげたい。椅子のライブでも、針の山のときだけ暴れるバカ女とか、ああいうのどうにかならんのか。だせぇんだよ。


…取り乱しました。

ま、ともあれHARRYさん筆頭の4人は素晴らしかったです。

見に行ってよかった。心からそう思えたライブでした。

「TOUR 2017 “BEAT FAST”
村越“HARRY”弘明(Vo.G),真壁陽平(G),市川“James”洋二(Vo.B),渡辺拓郎(藍坊主/Dr.)

M-01 Stuck in the Middle
M-02 CANCEL
M-03 24 Hours
M-04 Baby, Don’t Worry
M-05 LOVE YOU DARLIN’
M-06 Yellow Cab 乗って
M-07 おかかえ運転手にはなりたくない
M-08 NEW DANCE
M-09 Still Crazy
M-10 So Heavy
M-11 Sweet Pain
M-12 Uh,Ah,Oh,Ah (HARD DRUNK MAMA)
M-13 Back To Back
M-14 YOU KNOW MY NAME
M-15 ROLLしねえ
M-16 無頼白痴
M-17 SLIDER
EN-1 不良の森 (BLANKEY JET CITY)
N-2 BOOTS ON THE GROUND
N-3 Angel Duster
EN-4 狼煙

人間椅子 Mag-Net20周年記念ライブ 「異次元からの咆哮」リリース記念ワンマンツアー

人間椅子弘前公演行ってきました。

平日にもかかわらず満員のMag-Net。仕事を終えてから高速飛ばし駐車場から走ってギリセーフでしたが、もうここで息があがる。

アルバムツアーでの弘前ライブは「瘋痴狂」以来だろうか、2006年以来ってことか。
最初、イマイチかなぁと思っていた新譜「異次元からの咆哮」は、5回くらい回したら全曲好きになりまして、これぞ椅子マジック。いろんな要素がぎゅうぎゅう詰まっているからです。
その新譜からの曲を中心に進行するわけですが、もっと聴きたい新曲もあったなぁ、「風神」とか「悪魔祈禱書」とか「太陽がいっぱい」とか。
そんなに爆音ではなかったので、各楽器・各ボーカルがちゃんと聴こえ、しっかり堪能してまいりました。何をやってるかわからないような爆音ライブは逆に観客には届きづらいものです。

地元であり聖地である弘前にて、ちなんだ曲を多めに組んでやってくれました。欲を言えば「どだればち」や「泣げば山がらもっこ来る」や「わ、ガンでねべが」も入れればよかったのにと贅沢を言いそうになりますが、津軽弁は「月夜の鬼踊り」に集約したのでしょう。

なんと言ってもこの日のハイライトは「菊人形の呪い」。Mag-Netでレコーディングされた名盤、「頽廃芸術展」の中でもいちばん好きな曲です。懐かしかったし、マスヒロ期の曲はあまり演目に入らないので、ノブさんにも感謝の気持ちが湧き余計に嬉しかったです。中間部の変拍子のところ、歌と演奏に鳥肌が立ちました。新曲、「異端者の悲しみ」の中間部の歌も鳥肌ポイントです。からだ中が感動でザワーッとします。

人間椅子のライブはいつも楽しいのだけれど、毎回それが積み重なっていくというか、濃いものになっていくのです。彼らがデビューしてからずっと見続けてきてますから、つまりそれは28年熟成もの。この先もどんどん凝縮濃縮されていくのでしょう。
今回は平日だったので、FCチケットを男子に捌いて前列を野郎で埋める計画は叶わず、しかしそんな目論見は実はどうでもよく、とにかく、普段ロック好きを公言するヤツなら、あのバンドの、あのライブは絶対見たほうがいい。万障お繰り合わせで。

あの空間、あの時間、あの場所を共有できたみなさま、おつかれさまでした。
楽しかったね。

トクしたね。

 

超自然現象
ねぷたのもんどりこ
虚無の声
賽の河原
宇宙のシンフォニー
もののけフィーバー
異端者の悲しみ
芳一受難
菊人形の呪い
月夜の鬼踊り
相剋の家
悪夢の添乗員
あやかしの鼓
天国に結ぶ恋
針の山
en)
雪女
地獄のヘビーライダー
en2)
なまはげ